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市川代治の活躍(2023/6/3)

  • 乙原李成/Otohara Risei
  • 2023年6月2日
  • 読了時間: 2分

市川代治(Itchikawa Daiji,1872-1922)は山形県蔵増村(現在の天童市内)の農家の二男に生まれ、明治32(1899)年帝国大学文科大学哲学科を卒業。

明治33(1900)年から明治41(1908)年までベルリン大学に留学し、哲学と国家経済学を学んだ。

ベルリン東洋語学校(Seminar für Orientalisch Seprachen zu Berlin, Rheinische Friedrich-Wilhelms-Universität)で日本語講師をしたり、現地日本人が発行した雑誌„Ost=Asien“に日本を紹介する記事をいくつも投稿し、それらを編集した『日本の文化』を出版した。

同じ大学を卒業、同じ大学に留学しながら、南満洲鉄道株式会社(満鉄)東亜経済調査局(東亜経調)の設立に関わった松岡均平(1876-1960)の仲介で、東亜経調の主任になった。

草柳大蔵『実録満鉄調査部』では、「ヨーロッパ人の思考方法を身につけてもいた」と紹介しているが、ドイツ人指導者と日本人社員の間に立つ最適な人材だった。

東亜経調を報道した雑誌記事には、「局内の日用語は一切独逸語に限られ、又局外殊に外国との通信往復には独英仏三国語の外、西班牙伊太利の両国語を併用」したとある。

こんな出来事があった。ドイツ人の有志から当時逓信大臣の後藤新平に洋書が寄贈され、それがアメリカ合衆国経由の船便で、東亜経済調査局に受け入れられることになった。

ところが宛先のドイツ語名„ostasiatischen Wirtschaftsarchives“が東京中央郵便局では分からず、外務省に照会があり、そこで初めて満鉄あての郵便物だと判明したことがあった。

そのときの東京中央郵便局、外務省文書課と、満鉄の窓口だった市川代治の作成文書が、いまも外交史料館に残されている。

入局してから11年8か月後の大正9(1920)年、市川代治は退職して、翌年から鎌倉市に移り住んだ。

大正11(1922)年、それまで加入していた日本図書館協会の会報に退会者として掲載され、前後の退会者の表記(傍線)から、この時点で亡くなったと推定される。


参考文献

「米国経由在独帝国大使館発送小包郵便取調之件」(明治43年11月19日~明治44年7月28日)(B-3-6-10-1_008_001(外務省外交史料館))

https://www.jacar.archives.go.jp/das/image/B12081177400(2023年6月2日閲覧)

『官報』明治32年7月12日

市川代治「日本に於ける経済調査機関」『日本雑誌』(日本雑誌社)明治44年12月号

『東京社会辞彙』(毎日通信社1913年、湘南堂書店1987年)(肖像あり)

古山省吾『両羽之現代人』(両羽研究社1919年)

『東亜経済調査局概況 沿革及第18回事務報告書』(東亜経済調査局1921年)

『図書館雑誌』(日本図書館協会)44号(1921年3月10日)、48号(1922年2月25日)

草柳大蔵『実録満鉄調査部』上・下(朝日新聞社1979年、朝日文庫1983年)

泉健「『Ost=Asien』研究(3)」『和歌山大学教育学部紀要 人文科学』第54集(2004年)

市川代治『日本の文化』(吉原努2022年)(非売品)



市川代治肖像

出典:『東京社会辞彙』(毎日通信社1913年)

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