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岡松参太郎と„Rechnung“(2023/5/20)

  • 乙原李成/Otohara Risei
  • 2023年5月19日
  • 読了時間: 3分

更新日:2023年5月29日

岡松参太郎(1871-1921)は幕末・明治初期の漢学者、岡松甕谷の嫡子として豊後国鶴崎(いまの大分市内、異説あり)に生まれた。

父親ゆずりで語学に強く、明治27(1894)年7月帝国大学法科大学法律学科を首席で卒業した後、欧州各国に留学。明治34(1901)年法学博士。

明治32(1899)年京都帝国大学法科大学設立に関わり、民法学者として、『無過失損害賠償責任論』(有斐閣)等を著した。実弟は井上匡四郎。

明治40(1907)年から京都帝国大学法科大学教授在官のまま、南満洲鉄道株式会社(満鉄)理事を命じられた。

児玉源太郎(創立委員長)、後藤新平(初代総裁)、中村是公(2代総裁)から、それまでの台湾旧慣調査を評価されてのことだった。

児玉源太郎台湾総督から、「政治上の問題と云ふというのではなく、学問の研究をすると云ふ積りでやって宜しい」と臨時台湾旧慣調査会を委任されると、『清国行政法』『台湾私法』を含む報告書を次々とまとめ上げた。

早稲田大学図書館が所蔵する「岡松参太郎文書」は公私にわたるぼう大な資料群であり、留学先での記録、台湾時代、満鉄時代、各種政府委員の関係資料に加え、大量の原稿、私信を含む。

東亜経済調査局関係だけでも、ここにしか残っていない調査報告書が、マイクロフィルムからのプリントで容易に入手できるようになった。

特徴的なのはドイツの書店からの請求書„Rechnung“が残っていて、個人輸入の形で(ただし、満鉄名義で)、東亜経済調査局に必要な文献を取り寄せていたことがわかる。

京都帝国大学にいた頃から精力的な人物として知られ、帰宅後から深夜まで原稿執筆に当て、速書きの一方で字は読みにくかったという。

出張の船のなかや、京都帝国大学退官、満鉄辞職後もつねにドイツ語の原書を手放さず、なにか研究を続けていたという証言が残されている。


参考文献

『官報』明治27年7月11日、明治32年9月12日、明治34年12月23日

岩崎徂堂『名士の兄弟』(大学館1902年)

大阪朝日新聞社『人物画伝』(有楽社1907年)

「帝国大学卒業生は如何なる動機径路によりて実業界に出てたるか 3」『実業之日本』(実業之日本社)第12巻第3号(1909年2月)(満鉄副総裁理事の肖像あり)

「熊本県出身の実業家 上」『実業之日本』(実業之日本社)第14巻第5号(1911年3月)

吉武源五郎『児玉藤園将軍』(拓殖新報社1918年)

福島正夫「岡松参太郎博士の台湾旧慣調査と、華北農村慣行調査における末弘厳太郎博士」『東洋文化』25号、1958年3月

「中国旧慣の調査について」(座談会)『東洋文化』25号、1958年3月

末川博『法律の内と外』(有斐閣1964年)

『岡松参太郎文書目録』(雄松堂アーカイブズ2008年)

「京都帝国大学法科大学教授法学博士岡松参太郎南満州鉄道株式会社理事ヲ命スルノ件」(明治40年6月21日)(任B00476100)(国立公文書館デジタルアーカイブ)https://www.digital.archives.go.jp/item/2663796 (令和5年5月29日閲覧、満鉄理事任命年を訂正。)




岡松参太郎肖像

出典:『法学論叢』(京都大学法学会)1922年2月


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