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乙原李成/Otohara Risei

大逆事件の衝撃(2023/12/30)

明治39(1906)年発足の社会民主党は、無政府主義の影響を受けた党員によって、分裂の危機にあったという。

雑誌『社会主義研究』創刊号に「共産党宣言」翻訳全文が掲載、クロポトキン『麺麭(パン)の略取』翻訳出版は同じ年。


さかのぼること、明治8(1875)年公布の新聞紙条例は違反者への禁固刑及び罰金刑を定め、以来多くの逮捕者を出していた。

平民新聞記者の釈放祝いに社会民主党の両派を招いたところ、酒の勢いもあったのだろう、お開きのあとの言動から逮捕者を出した。

法をどのように解釈し、どのように運用するかは為政者のさじ加減だろう。

政友会総裁の西園寺公望が許容していた主義者を、陸軍を中心に広く影響をもつ山縣有朋は取り締まった。

この明治42(1909)年の赤旗事件の翌年、過激派による爆弾製作をきっかけに、予防措置が取られた。

天皇、皇族に「危害ヲ加へ又ハ加へントシタル者ハ死刑」とした旧刑法(明治13年公布、明治15年施行)以来、大逆罪は死をもって償われた。

厳しい運用(一審が最終審)のためか、適用されたのはこのときと、大正15(1926)年の虎ノ門事件のみ。

後年死刑囚たちの遺稿を入手、公表した神崎清によれば、検事の予断が大きく、法的手続きにも問題が多い事件だったという。


江戸期にはキリシタン、蘭学者、戯作者の弾圧に体刑をともなうことがあり、それが新聞紙条例に引き継がれたと推定できるだろう。

しかし、同時代に著述をなりわいとする人々に、事件が与えた衝撃は大変なものだった。

・永井荷風は雑誌『三田文学』明治43年10月号の雑録欄にて、「秩序紊乱」をまねく出版物の取締りが激しくなったことを報道。

さらに後年「花火」の一節で次のように省みた。「然しわたしは世の文学者と共に何も言はなかった。(中略)以来わたしは自分の藝術の品位を江戸作者のなした程度まて引下げるに如くはないと思案した。」

・森鷗外は雑誌『三田文学』明治43年12月号に「食堂」を掲載。主人公の口を借りて、無政府主義者の紹介を試みた。

・自然主義文学の徳富蘆花は明治44年2月1日、「謀叛論」と題した講演を行った。

・宮武外骨は『筆禍史』(雅俗文庫明治44年4月20日印刷、明治44年5月1日発行)出版、日本史における弾圧の歴史をふりかえった。

・石川啄木は事件に関心をもって、裁判記録を筆写したという。

・帝国大学図書館が社会主義関係書を貸出禁止、それに対し、松岡(均平)先生がけしからぬことだと語った、ヴェンチッヒ(Heinrich Waentig)先生だけは剰余価値論を説明してくれた、と大内兵衛は回想している。

(小松原英太郎文相が教育関係機関に、社会主義関係書の閲覧停止を命じていたという。)

・東京大学経済学部教授がつかう書庫に「あかずの間」があり、事件関係資料が保存されていたが、関東大震災で焼失したという。


参考

中島信行『刑法講解』(同盟書房1882年)

森林太郎『分身』(籾山書店1913年、「食堂」はその後の文学全集にも収録。)

永井荷風『麻布雑記』(春陽堂1924年、「花火」はその後の文学全集、文庫にも収録)

大内兵衛『旧師旧友』(岩波書店1948年)

『新日本史大系』第6巻(朝倉書店1954年)

『明治文化全集』第15巻(日本評論社1957年)

渡部義通, 塩田庄兵衛『日本社会主義文献解説』(大月書店1958年)

神崎清『実録幸徳秋水』(読売新聞社1971年)

徳富蘆花『謀叛論』(岩波書店1976年)

『東京大学経済学部五十年史』(東京大学出版会1976年)

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